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長谷川 泰  その偉大な足跡

[2019.06.21]

長谷川泰なる人物をご存知でしょうか。ご存じない方が大半かと思いますが、医学教育、保健活動にこれほど大きな貢献をした医師はいません。泰の業績となぜ歴史に埋もれたかを長岡市医師会雑誌に連載された田中健一先生、長尾景二先生の「長谷川 泰先生略伝」をとおし発掘してみます。

長谷川泰は1842年長岡市福井村の漢方医の家に生まれ、14歳で私塾の長善館で鈴木文臺の教えを受け、良寛の慈愛の心を学びました。その後オランダ語と英語を、長岡藩の洋学者鵜殿団次郎に就いて習得し、さらに幕末の1862年、当時隆盛を極めていた下総佐倉の順天堂に入塾して5年そして更に幕府の医学所に入り西洋医学を学びました。戊辰の役の前年に長岡藩の藩医となり、河井継之助の最期を看取っています。

明治2年、順天堂の第2代塾長佐藤尚中の推薦により、東京大学の創立に関わり、その後東京医学校校長になるも、薩長藩閥政府に対する反抗的言動を続けたため、明治7年長崎医学校校長に左遷、更に同校を廃校にされた。明治8年第1回医術開業試験の実施令が布達され、翌9年この医学開業試験のための私立医学校 「済生学舎」を東京本郷に開校する運びとなった。この医学校は入学試験、卒業試験もなく、入学金、授業料さへ納入すれば誰でも入学できた。そのため大勢の学生が押し寄せ、明治36年、閉校するまでの27年間に21494名が入学し、その中で医師試験に合格した者9628人(44.5%)に達し、当時の全国開業医師数は14833名でしたのでその半数以上が済生学舎の出身でした。明治23年 第一回衆議院議員に当選。3期務める。明治25年「関西に帝国大学を新設する」建議案を衆議院に提出。その建議の精神は「すでに存在する東京の帝国大学に対し、競学の風起こし、清新な学術の発達を促すそうとする」にあった。かくして、京都大学は明治30年に創立された。明治26年、「医薬分業のための法律改正案」が上程された。これは明治政府が医師の勢力を削ぎ、医師を統制下に置くのが目的だったといわれている。この法案に猛烈に反対したのが長谷川泰であった。演説が物凄い内容だったため、「ドクトル・ベランメェ」と綽名された。同年 北里柴三郎、福澤諭吉と組んで私立衛生会伝染病研究所を設立。明治27年 「戦争と衛生および戦後における体育の奨励について」クリミア戦争と普仏戦争の例を挙げ、「衛生環境が劣悪で病気が蔓延した軍隊そしてその国が敗れた」と説き、戦後の衛生の完備や体育の奨励、国力の増進を論じた。当時、富国強兵にのみ力を注いでいた政府に対し、衛生環境の整備の重要性を説き、その後の「下水道法」の上程に繋げていった。明治31年 内務省衛生局長に就任。明治33年 日本初の「下水道法」を成立させる。明治36年 済生学舎を解散。(その後、有志により医学講習所が設立され、今日の日本医科大学へと発展した)

自由・放任主義の済生学舎の西洋医養成に対して反発、批判する勢力、つまり国策に沿った医学教育を目指す東京帝大の青山胤通そして陸軍省医務局長であった森鴎外等による批判と攻撃に晒された。そして更に36年に発布された専門学校令、医師法案の行方、医術開業試験の廃止などにより已むに已まれず廃校に追い込まれた。

以上が長谷川泰の略歴です。これまでの経緯の中に泰がなぜ歴史に埋もれていったのかの回答があるように推察されます。いずれにしても幕末より明治にかけ、これ程の偉業を成し遂げ、「下水道の父」「公衆衛生の父」とも称された医師は他にはいないと思われます。是非「越後の長谷川泰」を記憶に留め、伝えていただければ幸いです。

                                                                    2012.1 新潟県医師会雑誌

                         郡市医師会長の声

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